出羽三山は、山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称です。
それぞれの山を巡るのが正式な参拝コースになっています。
随神門は出羽三山の玄関口で、ここから山頂まで杉並木が続きます。歩くと、東北地方最古の五重塔が見えてきます。平将門の創建とされ、国宝に指定されています。五重塔の左手には樹齢1000年を越す爺杉があります。
夏には涼やかにライトアップされています。特別天然記念物に指定されている立派な杉です。
一般の参拝方法と修験道は異なります。
一般の参拝者のルートは指定され、整備されています。
こちらから、出羽神社三神合祭殿を巡ります。ここには月山、羽黒山、湯殿山が祀られているので、ここだけで三山巡りを済ますことができます。
【月山】
山頂の月山神社には月読命が祀られています。ここから庄内平野や、鳥海山、朝日飯豊連峰、岩木山、八幡平が望めます。山頂までの登山は無理なら、原田原神社を巡ります。8合目に奇稲田姫を祀っていて、山頂の本宮参拝同様の御利益があるとされています。月山の神使いの兎はなで兎といい、悪運から逃れる力があるそうです。
【湯殿山神社】
"湯殿山は月山や羽黒山で修業を積んだ山伏が最後に修行に入る山。昔から「語るなかれ」「聞くなかれ」と口外することは固く禁じられてきました。現在でも、湯殿山神社本宮は、写真撮影禁止、参拝は土足厳禁という厳しい戒めで知られています"
奥の御滝神社は修験者が多く滝行をします。
【山羽黒修験道の擬似再生とは】
羽黒山 現在
月山 過去
湯殿山 未来とする考え方。
日本で発生し成立した山の宗教が山岳信仰です。神霊の宿る山岳を行場とし、自然崇拝を根幹とする呪術的な日本固有の信仰 (古神道)です。
ありのままの自然を究極の仏の世界と捉え、山の大自然の中に身を投じ自然と一体化する(密教)という世界観によって体系づけ、全てに仏性がある(法華経)という自覚と、往生思想(浄土教)を融合し、呪術(陰陽道)を用い、神仙術(道教)を駆使することによって、除災・招福・治病・延寿の呪禁力を発揮する宗教とされています。修験者の目的は即身成仏(そくしんじょうぶつ)することで、この身このまま現世において悟りを開き、生きとし生けるもののために救いの手をさしのべられる人間になることです。
出羽三山は、飛鳥時代、崇峻天皇の皇子である蜂子皇子が京都から日本海を越えて八乙女浦に辿り着きました。三本足の霊鳥に導かれて羽黒山を訪れ、難行苦行に末に「羽黒山大権現」が感応示現し、その後、月山、湯殿山を開きになられたことが始まりだとされています。平安時代には「神仏習合」の影響を受けて仏教寺院が数多く建てられ一大霊場として知られるようになりました。明治時代以降からは神仏別離され、現在は神道として信仰が続いています。
羽黒山修験道の大きな特徴は「三関三度」や「擬死再生」を体験するという考え方があります。三山を巡る修行を通して一度死に生まれ変わることを疑似体験するのです。
"
神仏は虚空と同体だから一定の住所はなく、衆生の中心に住んで影の形に従うように常に離れない。しかも、信仰を持たないものにはその姿は見えず、加護も得られないが、信ずる心さえあれば、それぞれの願いに応じて利益を与え給う。それゆえ、神は変幻自在の力をそなえている。しかし、居ながらにして拝するよりも、神々の本来の住所に参上する方が礼儀にもかない、利益も多い''
開祖である能除仙は第32代崇峻天皇の皇子で、大峰修験や熊野修験が開祖と仰ぐ役行者(7・8世紀頃の呪術者)より時代が早く、身分も貴い方です。また修験道の最高の法儀である柴燈護摩は、開祖が役行者に授けたものであるという伝承から、羽黒山こそ修験道の根本であるとして「古修験道」と称されています。
まず、羽黒では修験者と山伏、法印が一緒である。
修験者の3つの分類
清僧修験者(山内修験者)と
山麓修験者(妻帯修験者)
末派修験者とあります。
清僧修験者は羽黒山神域から生涯一歩も出ず、妻帯はもちろん肉魚食を絶ち、精進料理だけで修行を続ける者をいう。一生独身のため、法燈は弟子によって受け継がれました。羽黒山中には清僧修験者の坊が三十三カ所あったといわれ、安政五年の覚書には僧の数五、六百人とあります。明治維新の神仏分離、修験道宗廃止でこうした坊はことごとく壊され、表参道の二千四百四十六段の石段周辺にある平場が当時の坊跡の名残です。
次に山麓修験者とは、羽黒山山麓に坊を連ね、妻帯して一家を構え修験道に精進する山伏のこと
、山麓の手向(とうげ)地区には、法燈を親から子へと世襲で受け継ぎ、その血脈を保っている坊が、いまも三十五軒ある。往時は三百に近い坊があって、約四千人の山麓修験者がいたという。こうした山伏は、東北地方は霞(かすみ)場、関東地方は旦那(だんな)場と呼ぶ信者の縄張りを回り、札を配って初穂(祈祷料)をもらった。現在は宿坊と山伏を専業としているのは約二十軒。後はサラリーマンの兼業である。
第三は末派(まっぱ)修験者である。秋の峰入りなど一定の修行を羽黒山で積み、霞状を羽黒山からもらって地域に住んだ。信者のために祈祷、呪術(じゅじゅつ)、悪霊祓いなどを行い生活していた。
現在に残る羽黒の山伏は、神社系と寺院系に分かれます。根は一つで、神仏分離で分かれました。最も大事な修行の一つ秋の峰入りは、神式と仏式の二通りがあり、最近ではいずれも女人禁制を解いて門戸を広げている。
行人、行者は信者から「おんぎょうさま」と呼ばれました。一生不犯の一世行人と妻帯行人がおり、山内での地位は低い。修験道の修行を本格的にやっていないので、山伏とは一線を画していたらしい。地位が低いために、湯殿山の一世行人の中には穀絶ちをして即身仏になり、聖人になるものもいたといわれています。
このほかに、太夫というのがいました。大社、名社に出仕し、社領の配当に預かっていた者と、村の社に奉仕した者とがあり、神道的色彩の強い者と修験者的性格の強い者とがいたといいます。
【何を調べたいのかなあ】
ここまで来て手が止まりました。山岳信仰について、どんなルートでどこを歩き今なお修行の場となっている場所を探すこと。かな?
今回はちょっと時間がかかってしまいました。