azamiの趣味 離島生活

きしべのあざみ この頃の趣味

山岳信仰 宮城県青麻山短編集は休刊

宮城県青麻山は、かつては大刈山と呼ばれていました。蔵王連峰東麓の遠刈田温泉から南東に位置し、東西に長く裾野をひいた山です。

標高799.2m。山岳信仰の対象の山でした。

江戸時代には谷文晁が『名山図譜』に描いたという。信仰の山でもあり、今では東北百名山にも選ばれています。

 

【刈田嶺神社】

宮城県刈田郡蔵王町宮字馬場1

 

古くは「刈田嶺」と称された蔵王火山も「刈田嶺神」として、信仰を集めました。奈良時代には信仰されていたと見られ、平安時代の「続日本後期」には、朝廷が刈田嶺神に祭祀料 を贈与したことや、位階を授けたことが記されています。当時活発だった蔵王火山の噴火活動を「刈田 嶺神」の怒りと考え、これを鎮めることが目的だったとされています。

 平安時代の「延喜式神名帳」にも記載された由緒ある神社で、江戸時代には刈田郡全体の守り神を 意味する「刈田郡総鎮守」とされ白石城主片倉家の保護を受けています。郡内では最も大きな神社で刈田郡総鎮守、伊達家家臣片倉家総守護神である。白鳥大明神の別名があります。

刈田岳(標高1,758m)山頂の「刈田嶺神社」と対になっており、山頂の社を奥宮、に対して里宮があります。

 

蔵王山頂に鎮座する蔵王大権現は、天武天皇8年(679)に、役の行者の叔父 願行(がんぎょう)が勧請したと伝えられています。蔵王大権現社は蔵王一帯の修験者を統括し、大刈田山(青麻山)東麓の「願行寺」が管理しました。平安時代末期(12世紀末)には奥州藤原氏の庇護も受け、願行寺は繁栄し、子院四十八坊を形成します。奥州藤原氏が滅亡とともに衰退し、戦国時代には兵火による焼失も加わって、戦国時代末期には山之坊・宮本坊・嶽之坊の3坊にまで減少しました。

御山詣りが流行した江戸後期以降は、多くの参詣者を山頂の蔵王大権現へと導く役を担った。雪深い蔵王山は冬の参詣ができないため、例年、十月八日から翌四月八日までは御神体を遠刈田の「蔵王大権現御旅宮」(おかりのみや)に遷すようになった。この御旅宮は嶽之坊と同一の場所にあるなど、古くから嶽之坊と蔵王大権現社とは、同体ともいえるほど深くつながってました。

 

明治維新で神仏分離が行われると、吉野では「蔵王権現」を神号とし、従前の僧侶が神官となった。これに従って明治2年(1869年)7月に「蔵王大権現」を「蔵王大神」へと改号。さらに同年9月、「蔵王大神」とは天水分神、国水分神の2柱であるとの解釈から、社号を「水分神社」(みくまりじんじゃ)に改称、この時期に修験道の「蔵王大権現」を管理していた真言宗の嶽之坊は、神道の神社と合一したようです。明治8年(1875年)に「水分神社」は「刈田嶺神社」となりました。

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【あざみの日常】

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短編集を一回お休みして、近況報告にします。

練馬区でも、コロナ対応の病床はひっ迫してきているようです。

昨日は脳梗塞の経過観察のため、二つの検査を受けに病院に行きました。

 

診察を待つ間に、救急車が立て続けに3台も入ってきました。受付には、コロナワクチンを予約している人が列を作っています。

 

私はかろうじて、来週末に予約できました。

家で過ごしていると、外の様子が分かりません。病院の緊迫感に圧倒されて、ぐったり疲れて戻りました。

 

検査の結果は異常なし、それでよかったのですが、検査費用に、薬代。仕事は退職を余儀なくされて、いよいよ年金生活に入りました。

 

予定より、三年も早く、社会から隔離されています。たまの病院通いは、良い刺激にはなります。

 

自分はこの先、どうなって行くのかと、心配するよりも、社会はこの先どうなって行くのか、関心を向けて、心配しようと思ったのです。

 

で、久々に疎かにしていた世の中のニュースに目を向けると、火事や、洪水や、地震や、新島が出来ていたり、戦争、内乱、世界が悲鳴を上げています。

 

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