新潟八海山
四方を山に囲まれた南魚沼は、八海山と言う、山岳信仰対象の山が在ります。八海山は、駒ヶ岳、中岳とともに、「越後三山」と呼ばれています。これらの山々は、人々から「霊山」として崇められていました。八海山に対する原始的な信仰の始まりは、農作を守ってくれる水分神(みくまりのかみ)や作神がお山に宿っていると信仰されました。
麓に住む人々は、あえて山には入山せず、山麓の里地に鳥居や小さい祠を作って遥拝し、祭祀してきたという歴史があり、その信仰は現代まで受け継がれています。苗場山は頂上に広大な湿原があり、『天狗の苗場』として、神聖視されて来ました。
南魚沼における山岳信仰は、在地の山岳崇拝に外来の文化の伝達者である遊行宗教者たちの活動が加わり、ますますの発展を遂げていくのですが、特に吉野・熊野の修験山伏たちや白山・石動山など北陸霊山の聖たちの影響もあり、これに関東霊山の信仰も加わって賑わいました。
【八海山尊神社】
祀神 国狭槌尊、天津彦火瓊々杵尊、木花咲耶姫尊、大山祇尊、日本武尊
八海山は、中臣鎌足公が御神託を頂いて御室に祠をもうけたのが始まりと伝えられております。八海山には投行者小角、続いて弘法大師が頂上で密法修行されたという事蹟譚があり、古くから両の霊場として、山麓周辺の修験宗寺院を中心に八海山信仰が起こりました。八海山信仰の始まりは、南北朝中期に編纂された『神道集』に越後の三の宮・八海大明神とあり、御祭神を元気水徳・国狭槌尊として、霊験あらたかだと伝わりました。寛政六年、木曽の御嶽山の大滝口を開いた、普寛行者が大神の夢告に導かれて来越し、泰賢行者を随いて八海山登拝道を開きます。御嶽山の兄弟山として列格し、次第に全国にその名が知られるようになりました。全国各地の講集団が訪れるようになり、大崎口登山道は、享和三年(一八〇三年)に切り開いたもので、これが大崎口里宮(現八海山尊神社)を世に知らしめた始まりです。
その後、泰賢行者は大崎口里宮を拠点に諸国を行脚し、八海山信仰の布教に身を棒げました。 八海山尊神社は、八海山信仰の霊場として、その信仰は親から子、子から孫へと代々引き継がれて、今日に至っています。
宗教法人としては、八海神社が7社、八海山神社が1社、八海山尊神社が1社存在します。
【あざみ短編集】
ある男の臨死体験
三途の川にたどり着いたようだ。
聞いていた通り、荒涼とした場所だった。ダツエボだろうか、向こうからばあちゃんが見ている。そこには一艘の渡し船。だけど、私が行きつく場所はここではない。
きっぱりと否定した瞬間、三叉路に立っていた。
一本目にはリンゴの木があり、蛇に守られていた。次の道には、桃の木があり、たわわな実をつけている。桃と言えば黄泉の入り口だろう。行く訳がない、この道も違う。
次の道ばたには、菩提樹の樹あるが、ここでもない。さて、あちこち見物したが、わたしは道端に座り込んだ。お釈迦様が悟りを開いた菩提寺の木の道は多少縁がある。お寺さん併設の幼稚園だったから、甘茶を頂いたり花祭りをした。この道を行けば少なくとも、地獄には落ちないよなあ。
奥には美しい乳白色の花が咲く蓮池が見える。あれほど完璧な風景に入ったら、邪念だらけの自分は消えてなくなる。浄化されてしまう恐れがあった。ちょっと足がすくむ。
これほど生前の記憶を持ったまま、この地に立つとは知らなかった。私はどちらかというと、天国に行きたいのだ。
自分で天国をイメージできれば、行けるはず。百合の香りがする方向には、輝く扉がある。眩いばかりの光の道。天国に通じる道だ。うーん!
さてさて、困ったことになった。確かに私は死んだのだ。モニターに映し出された心電図が、完全に0を示すのを見た。そして、気がつけば、三途の川に出たのだ。誰かが向こう岸で手招きするとか聞いたことがある。身内に手招きされたとか。お迎えでもあれば行きやすいだろうに。
神様だって、ここまで来れば、もっと身近に感じる筈だ。私は小石を積む人を横目で見ながら、知ってる限りの神様を浮かべた。
天津神、国津神、天照大神、シヴァ、ビシュヌ、ブラフマー、梵天、ゼウス、ヘラ、ポセイドン、キリスト様、マリア様、アラー。スサノウノは神様だったっけ。どれも遠い存在だった。
完全に道に迷った。
せっかくここまで来たのに身動きが取れない。
よく見れば、うろうろしている人々の顔が見える。知った人がいるんじゃないかな。
あっ、あそこで笑うのは、叔父さんだ。飛び上がりそうになった。確か去年行方不明になったと聞いた。こんなところで知った人に会えるとは。
「あっ、お前か! 俺は、ヒマラヤ登山に行ったきり、遭難して、まだ発見されてないんだ。おまえは死んだのか」
「そうだよ。叔父さんは行方不明ってことになってる。これから、どうすればいいの」
「ここは、天国への出発ターミナルみたいなもんらしい、じいちゃんも、まだうろうろしてた」
叔父さんはニヤニヤ笑っている。
「なんでじいちゃんが? とっくの昔に亡くなったよ」
「ここに来たら、向こうから迎えが来て、光のトンネルに入ったり、階段が現れたり、ほら、渡し船があっただろ。船賃を渡せば、川向こうに行ける」
「金なんか持ってないよ」
「そうだよな、死装束は着せてもらえなかったのか、旅立つときに、六文銭を首にかけてくれるはずなんだが、あいにく我が家は仏教じゃないからなあ」
「竜宮城なら行ってもいいけど」
「そんなところはあるもんか、かぐや姫や、七夕さんも物語の世界だからな」
「おじさん、我が家は隠れキリシタンじゃなかった?」
「いや、曾祖父さんの代までだ。あとは、隠れる風習だけが伝わった。ただ自分の宗教を知られないようにした歴史が長いから、子孫はなにも知らない。祈る言葉も、作法も知らないだろ」
「おじさんはこれから、どうするの」
「諦めた、戻ることにしたよ」
俺も叔父さんも、九州の小さな離島で生まれた。
神棚の下に仏壇があり、マリア様の写真が飾られている。おまけに、隠された洗礼名を別にもつ。
特殊な宗教感の元に育った。
「戻れるの? それなら俺も帰るよ。もっと調べてからじゃないと」
「調べる? 違うだろ、誰かがお迎えが来るんだ」
「だって、来ないじゃないか」
「無理に進むと、混沌に落ちるらしい」
「混沌ってなんだ?」
「天国でも、地獄でもないところさ、聞いた話しだよ。先がわからないから、祖父さんも俺も途方にくれてる」
わたしは聞いた瞬間、叔父さんの手を掴み、反対側に駆け出した。
混沌だって?
天国でも地獄でもない場所なんて、絶対嫌だ。
「なあ、正、おまえに会って助かったよ。俺は、記憶を無くして、ネパールの奥地で発見された。すぐに帰国手続きができて、帰ったばかりだ」
ベッドの枕元に座っているのは、叔父貴だった。
「おまえも、死にぞこなった」
これは夢なのか、現実なのか。
「教えてやろう。うちの一族は、みんな混沌に落ちたんだよ。おまえと私だけが帰って来た。つまり、蘇生した。祖父さんもやがては混沌行きだな」
「親父は?」
「あいつは、カトリックに改宗しただろ。さっさと天使に連れられてどこぞに行ったよ」
たまに会うおじは、親族の中では、ホラ吹きと言われていた。おじさんは世界中を旅しながら、自分に合う神様を探していたのだと言った。
「信仰は持たないが、信仰心は大事だ。我が家は隠れキリシタンだけど、それすら隠していたために『住所不定無職』のようになってしまった。父親は仏壇に向かい十字をきるが、母は手を合わせていたよな」
そう言えば、葬儀は神主が執り行う。だけど祭壇は白黒の幕が張られていた。親父はいつの間にカトリックに改宗したんだろう。
「叔父さんは、前にもあそこに行った事があるでしょ」
「これで二回死にそこなった。10歳の頃に、崖から落ちて、気がついたらあそこにいた」
「また行きそこなったね」
「おまえも、当分死ねないな」
自分が逝く道がわからないとは、思いもよらないことだった。