azamiの趣味 離島生活

きしべのあざみ この頃の趣味

山岳信仰 石川県白山と短編集

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養老元年(717)に、越前(福井県)の僧泰澄が初めて白山に登拝し、翌年山頂に奥宮を祀りました。以来、白山信仰は急速に全国に広まっていきました。


白山登拝が盛んになると、加賀(石川県)、越前(福井県)、美濃(岐阜県)には、その拠点となる馬場が設けられ、多くの人々で賑いました。


【白山比咩神社】

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加賀馬場の中心として栄え、比叡山延暦寺の末寺として多くの衆徒を擁し、北陸道全域に勢力をおよぼしました。


明治時代を迎えると、神社と寺院を区別させる神仏分離令が発令され、仏像や仏具が白山の頂より下ろされることとなりました。それらの仏像は「白山下山仏」として現在も白山の山麓の白山本地堂や尾添白山社などに安置されています。


明治10年(1877)には、白山比咩神社を本宮、山頂の神祠が奥宮と定められ、御鎮座二千百年を越える信仰の地として親しまれています。


創建は古く、崇神天皇の頃(紀元前)と伝えられています。奈良時代に、越前国の僧・泰澄が、天空に現れた貴女(白山神)のお告げを受けて、養老元(717)年に白山の登頂を果たし、修行し、白山の神々の姿を感じ見たといわれています。


そして、それまで白山を遠くから遥拝していた人々が、山頂へ登る登拝という祈りの形への移行のきっかけももたらしたのです。「霊峰白山には神仏が坐す」と語られています。


現在の「白山比咩神社」「長滝白山神社・白山長瀧寺」「平泉寺白山神社」で、平安時代の末頃には「三馬場」とよばれ、白山信仰の崇敬者たちが集まり、登拝していたそうです。


神と仏が融合しているのも白山信仰の特質です。さらに山頂を極楽浄土と見立てた「生まれ清まる」の願いから、魂が帰る新たに生まれる場所として、還暦や厄落としなど人生の節目に登山するようになりました。


【あざみ短編集】

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土地の記憶と彷徨い人

 


何度も迷い道に入ってしまった。東京という大都会は、過去の記憶を抱いて眠っている。


迷い道に入っては、街の歴史を調べたり、謎解きをしているうちに、迷いやすい道の検討がつくようになった。


明暦の大火をはじめ、火災による消失と、当時の悲鳴、阿鼻叫喚の地獄絵図。そうした土地の記憶はただ悲しいばかり、胸が押しつぶされそうになる。


関東大震災では、各地の避難場所にも火が移り、多数の死者を出している。街を歩くと、石碑に出会うことがある。偶然出くわした石碑の意味を知り、しばし愕然とする。


迷い道に入ると、空気が変わったのをはっきり感じる。私は日銀通りをよく歩いた。そうそう、迷い道から抜け出す方法を伝授しておく。

いつか役に立つかも知れない。


関連する建物や、店、路地。とにかく当時から残るものや地点を探し出す。目を閉じて、心から祈りを捧げたり、情景を思い浮かべる。いまく行けばそれだけで、こちらに戻れる。また、自分はどのあたりにいるのか、現在の位置をイメージし、ひたすら歩くと抜け出せる。


決してパニックを起こしてはいけない。

私は東京に長く住み、日本橋界隈は30年もうろついている。それでも、どうしても戻れない時には、現在も残る寺や神社の境内に行き、眠ってしまうことだ。絶対火事に巻き込まれてはならない。朝になれば、戻っている。


多分歴史ある地方都市でも同じようなことが起こっているはず。そんな話を集めたら、図書館一軒分の不思議が集まるだろう。

 

とくに、日銀周辺の通りは昼間でも、薄暗いイメージがある。夏のカンカンした日照りは、蜃気楼のように土地の記憶に引き込まれる。目眩かなと感じた時にはすでに入りこんでいる。


日銀の円形ドームが焼けた日。いきなり、背後からの馬車に衝突されそうになった日。騎兵のあの後ろ姿は、皇居の近衛兵ではないか?

一刻橋の上では、向こう側に土の道が続いていた。


茅場町あたりで雨やどりに入った店は、心地よいジャズの音楽で満たされ、紫煙に包まれた。

二度と遭遇しない店で、ひとつの陰謀をささやく輩と出くわした。


私は東京という街の魅力にやられてしまった。

細かい話はこの先ひとつひとつ語ろう。

 

 

 

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