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山岳信仰 長野県妙高山

 

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平成27年3月、全国32番目の国立公園である「妙高戸隠連山国立公園」に指定されました。新たな国立公園として上信越高原国立公園から西部地域が分離したことによります。


妙高戸隠連山国立公園は、山々が密集していることにより、麓の高原も比較的狭い面積となっています。これが、西部地域を上信越高原国立公園から分離することとなった景観的理由です。


飯縄山、黒姫山、妙高山、焼山などの火山と、火打山、雨飾山、戸隠山、高妻山などの非火山が比較的小さな面積の中に凝集している点が特徴となっています。


妙高戸隠連山国立公園は、密集した多様な山々が点在する湖沼・湿原と相まってすばらしい景観を作り出しています。


上信越高原国立公園の東部地域は、浅間山をはじめとする火山連峰の裾野に広大な高原がみられます。


【妙高山】

標高は2,454m。越後富士とも呼ばれ、古来より山岳信仰の山として崇められてきました。複式コニーデ型の休火山で、外輪山には前山・赤倉山・三田原山・大倉山・神奈山があります。

別名を須弥山(しゅみせん)と呼ばれています。


須弥山とは仏教界において、世界の中心にそびえる、果てしなく高い山のことです。戸隠山、白山とともに、山岳信仰の霊山として多くの修験道に崇められ、女人禁制の山でした。平安中期から鎌倉時代、弥勒信仰が盛んで、妙高山も阿弥陀如来の鎮座する霊山として崇められていたのです。


空海も妙高山を霊山と直感で悟り、修行の場としました。また、親鸞上人も霊眼により、この霊山に霊泉ありと悟り、里の民にこれを告げたのです。


赤倉温泉の開湯以前、妙高山一帯は、関山三社権現(現在の関山神社。708年建立)の領地でした。関山三社権現は、妙高山の神様を祀るため、また、霊山として一般には入山できない妙高山の“眺めの場”として建立されました。


宝蔵院(関山神社の近くに跡地あり)が関山三社権現の別当寺として、事務等一切を仕切り、また、修験道の道場となっていました。


宝蔵院は、太陽が昇るところから沈むところまでの範囲はすべて領地と言われたほどの勢力でした。


西暦1800年代、江戸時代にあっても、高田藩の出る幕もなく、妙高山は宝蔵院が管理し、一般には入山禁止となっておりました。絶大な勢力を誇った宝蔵院も徐々にその財力を失い、赤倉温泉開発の時節が到来するのです。


江戸時代文化11年(1814年)、村民代表が越後高田藩主榊原政令(さかきばら まさのり)に、温泉場開発の願いを出しました。妙高山は宝蔵院が管理していました。


大金を払い、文化13年(1816年)3月より着工し、同年9月下旬に温泉引湯に成功湯船2箇所(共同浴場)ができ、入浴できるようになりました。引湯にあたっては、佐渡、越中より大竹を取り寄せ、妙高山地獄谷より約7キロの距離を500本の大竹で結んだと言われています。


温泉買い入れ金800両、打撃が予測される関の湯(現関温泉。これも宝蔵院の領地)への迷惑料300両を宝蔵院に支払うことを条件に、文化12年に許可を受けました。米一石一両の時代に、実に1,100両もの出費でした。

そして、し、という今では信じがたいほどの話です。その間、総経費として、3,120両2朱余がかかり、拝借米2,000俵、続く温泉宿の建設や新田開発の費用が2,161両となった、まさに高田藩の命運をかけての壮大な開発事業でした。「殿様が造った温泉郷」とも呼ばれます。


山名は、古くは「越の中山」(こしのなかやま)と呼ばれていたものが、名香山と当て字されました。

 

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