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山岳信仰 長野県御嶽山

 

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山は、平安、鎌倉時代から、修験道の場として独自の山岳信仰として栄えるようになりました。後にそして徐々に厳しい修行を重ねた道者といわれる人々が集団で登拝するようになって行きます。1784年(天明4年)に尾張の行者・覚明(かくめい)によって三岳村の黒沢口が開かれ、続いて1794年(寛政6年)には武蔵國の行者・普寛によって王滝口が一般民衆に開放されました。この時期から、木曽周辺で留まっていた御嶽信仰が全国的な信仰へと広がります。


1882年,富士信仰系の一派は扶桑教,一派は実行教,木曾御岳信仰系では御岳教が教派神道として独立して行きました。

 

明治維新後、神仏分離が進められることによって、仏像や仏具を持って社前に祀る神社が改められることとなりました。御嶽神社も仏教関連のものを除きましたが、もともと御嶽信仰は御嶽山そのものを信仰するもので、ここを訪れる人は御嶽神社を中心に強く結ばれており、その後も宗派を問わず、独自の講社として神仏混合の形を取りながら今も有数の山岳信仰の場として存在しています。


【御嶽山噴火後】

「御嶽講」と呼ばれる集団が白装束で山に入ります。夏山登拝の参加者です。人々は先達(信仰の山における指導者的な役割のこと)の指導のもと、元気な子供も足腰が弱った高齢者も一体となり、助け合いながらゆっくりと着実に山頂を目指します。


山中各地の拝所において、修験者(山伏)のように印を結び仏教の真言や経文を唱え、一方では神道の祝詞を唱え拍手を打ち、祈りをささげ、さらには山中の聖地や山頂において「御座(おざ)」と呼ばれる神おろしの儀礼をおこなっています。


【御嶽講と修験道】

「御嶽講」が神道の神と仏教の仏をともに大事にする神仏習合的な信仰を登拝や儀礼を通して伝えてきました。同じ山岳信仰の世界であっても、修験道の行者と「御嶽講」の先達や信徒には若干の違いが見られます。


修験道は、どの御山での修業なのかによって信仰形態は異なっています。修験者たちはいかめしい装束に身を包み、山々を風のように駆け抜け、岩場をよじ登り、生と死の狭間を行き来することも修行として取り組んでいます。


御嶽における先達や信徒は簡素な白装束を身に纏い、ゆっくりと講中(参加者)全員を山に引き上げるように登ります。


修験道と「御嶽講」は大変良く似た部分と異なる部分を持ち合わせています。ともに御山に生きる草花や木々、岩や川、風や雲など自然そのものと、その現象すべてに神仏の存在を見出し、「おつとめ」や「勤行」と呼ばれる参拝の際に唱えられる経文や真言、祝詞の奏上といった宗教儀式を行います。


山伏修行は、大峰奥駆け修行や羽黒山秋の峰入りなどに代表される、強い体力と機根が求められる専門的な修行です。


「御嶽講」の登拝の場合、希望するならば児童も高齢者も山に導こうとする大らかな抱擁性が強く、大袈裟に言えば誰もが山行に参加できる点にあります。現在は御嶽教や木曽御嶽本教などの教団を創りあげました。

 

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