伊予国一宮
創建 推古天皇
全国に897社、同信仰の三島神社を含めると1299社存在するといわれています。
また、1995年の神社本庁の調査では、三島神社と合わせて704社存在するようです。
瀬戸内海に浮かぶ大三島西岸、神体山とする鷲ヶ頭山(標高436.5メートル)西麓に鎮座しています。古くは大三島南東部に位置ていました。
祭神 大山積神
別名 多志大神(わたしのおおかみ)」三島大明。
伊弉諾尊と伊弉冉尊の子で、磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父と伝えられています。
元は山の神ですが、大山祇神社が瀬戸内海の要所に位置することから、海の神としての信仰も厚いです。大山祇神社では社名「大山祇」と祭神名「大山積」とは異なる表記が用いられていますが、かつては社名も「大山積」と表記されていました。
境内には弥生時代の神宝や祭祀遺跡があるといわれています。かなり古い時代から存在したとされる神社です。
全国の国宝・重要文化財に指定された武具のうち
8割が、ここ大山祇神社に所蔵されています。
大山信仰の神奈川県の大山阿夫利神社との関係がよくわからないのですが、調べてみました。
相州伊勢原の大山阿夫利神社は、明治になって神仏分離令によって祀られるようになったもので、江戸時代以前の神仏習合時代には、山頂にある本社に本来の祭神石尊大権現が祀られていたようです。
現在の下社境内にあった大山寺の不動堂は、明治初めの廃仏毀釈・神仏分離で破却されて、跡地に現在の大山阿夫利神社下社が出来ています。
仏教系修験道の寺が突如として神社に転換されているのです。このあたりはもう少し詳しく調べてみます。山岳信仰の大山参りとの関係が、いまひとつ分かりません。
相州大山寺も神仏分離令が発布されるや、現阿夫利神社下社にあった大山寺不動堂が破却されてしまい(但しお不動様は、その威光により奇跡的に破壊を免れていた)阿夫利神社となって今に続いています。とすれば、同時期に、日本古来の神仏習合の山岳信仰の17万人いたという山伏が廃止され、山伏は山を降りることになったことから、山岳信仰の大山信仰と、同一の神様であり、元々は愛媛の大山祇神社から分離したと考えるのが、普通です。間違っていたらすみません。ただ今勉強中です。
【大山阿夫利神社】
神奈川県伊勢原市
「阿武利」とも表記し、「あぶり」とも読む。『延喜式神名帳』に小社と記載された相模国の延喜式内社十三社の内の一社です。
祭神 大山祇大神、大雷神、高 神
天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られました。
中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家から信心されます。江戸時代には講(大山講)が関東各地に組織されました。大山祇大神は、富士山に鎮まるとされる木花咲耶姫の父であるため、大山と富士山の「両詣り」も盛んとなり、「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」といわれます。
明治時代になると神仏分離令を機に巻き起こった廃仏毀釈の大波に、強い勢力を保持していた大山寺も石尊大権現・大山寺の名称は使われなくなり、旧来の「阿夫利神社」に再び改称されたなようです。その後、大山寺はかつての女坂途中に場所を移して再建されました。神社本庁には属さず、昭和27年(1952年)8月より阿夫利神社本庁として単独で運営されてきましたが、近年、神社本庁の傘下に。
神社の系統を調べていると、神仏習合時に線引きがはっきりせず、地域や権力者の都合が働いているので、無理に捻じ曲がって、分かりにくくなってしまったのを強く感じます。
山岳信仰ルートも興味があります。すぐに終わるはずだった神社ブログ、まだまだ続きます。
【練馬散歩】
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